金の卵、
65年の板金人生の
スタートを切る!
「金の卵」と呼ばれ、戦後の高度成長の、原動力となった世代です。農村では長男以外は上京するのが一般的で、会長さんも中学を卒業すると“就職列車”に乗りました。憧れていた東京、上野駅に着くと「はー、ここが東京か」と感慨深かったそうです。「昭和33年5月11日に、天野電機という会社に入社しました」と、日付けまで教えてくれたので、「よくスラスラ出てきますね」と感心しました。すると、同じ集団就職で共にその日に入社した、同郷の一つ上の先輩がいて、「毎年5月11日に一杯やってきたから忘れないんです」と。ずっとだそうです!なんと、とっくに半世紀以上毎年!「その人はいま埼玉に住んでるから、大宮で待ち合わせして」と、いまも続くその記念日での一杯。あんまり素敵で感動しました。
会長さんが働き始めた天野電機は、当時20人ほどの、金属加工の会社でした。工場の2階に住み込んで、「自分たち小僧は6時半に起きて機械に油を差したりと、準備をすることから一日が始まりました」。時代も時代、厳しい人もいて、グズグズしてるとハンマーが飛んでくる。働き詰めで徹夜することもあったそう。「若かったから、とにかくお腹が空いたんですよ。残業のときの夜食が唯一の楽しみで、夜9時までだと蕎麦、それが12時になると天丼も付いた。あれが嬉しかったねぇ」と振り返ります。お給料3000円のうち、500円が天引きになり、会社が積み立ててくれていた。「それがすごく助かった」そうです。自分では貯められなかったからと。
いまのAISと同じで、金属の板を切ったり曲げたりの板金。しかし機械がいまとは全然違うので、一つの作業を3人がかりで、ほとんど人力でやっていたといいます。住み込みの若者は多いとき20人はいて、みんなくたくたで雑魚寝。ここが会長さんのすごいところで、そんな中、会社に溶接機が導入されると、たまに早く終わった日には練習です。勤務時間外の自習。「金属を溶かして固めるなんて、溶接はすごいと思ったんですよ。遊びに行く金もないし、練習させてもらいました」。
“先代”の恩に報いたくて
創業するも・・・
「いいところに勤めた」と会長さん。もちろん転職する人もいて、誘われたこともあったけど、天野電機をあとにしようと考えたことは一度もなかったそうです。「先代」と慕う当時の社長さんは面倒見がよく、厳しくもかわいがってくれたと、ずっと恩に感じていました。40年余り同じ会社で働き続けます。その間、結婚して、子どもも生まれました。先代が120人くらいまでの規模にしたその会社が、しかし代替わりしたあたりから景気が悪くなりました。埼玉と東京にあった工場のうち、東京を閉鎖する話が持ち上がり、会長さんに、独立して引き継がないかとの話が舞い込んだのはそんな流れからでした。「女房に相談する」と返事をした会長さん、先代が残した工場をなんとしても存続させたいと、すでにご自分の気持ちは固まっていたそうです。「女房に話したら、お父さんがやるなら一緒に頑張ると言ってくれたので、思い切ることにしました」。59歳のときでした。
「AISの社名は、天野のA、石岡のIに、製作所のSを付けたもので、女房が考えました。会社の経理まわりも、女房が見てくれました」。ずっと支えてくれたそうです。
さて、会社をつくって自分でやってはみたものの、「まぁ、大変だった」。支払いは手形ばかりで、現金になるのは半年先。にっちもさっちも行かないくらい、資金繰りに困ったそうです。会長さんは、来る日も来る日も3、4時間しか寝ずに働きました。夜遅く、仕事終わりの疲れた体に少しのお酒、それが覚めてくる夜中の3時ごろにまた、明かりが漏れないようにして仕事をしました。「苦しい中、ついてきてくれた従業員に感謝しています」と、力を込める会長さんですが、従業員の方々も、会長さんの必死な姿に思うところがあったのでしょうね。
AISは、「深みにはまらないうちにやめた方がいい」と助言されるまでになっていきました。「もっと小さな商いに変えて、蕎麦屋とかやればいいじゃないかと言う人もいましたけど、それなら最初からやってません」。先代の恩に報いたい一心だった会長さん、苦しい時間はいつ終わるともなく続きました。3年半ほど経ったとき、経営をどうしたものか悩む会長さんに、経理を一手に担う陽代夫人が、「お父さん、お金なら大丈夫だよ。まわるようになってきたよ」と告げたのです。そのときの嬉しさは生涯忘れないと。「真っ暗なトンネルの奥に、やっと小さな明かりが見えたみたいでした」。苦労の末にAISを軌道に乗せることができたのです。「世の社長さんはみんな、ゴルフに行きますよね?AISももう大丈夫だと言われて、初めて行ったんです。嬉しかったです。明日も行くんです(笑)」。あぁ、よかった!ちなみに、ゴルフの腕前も、自慢できるまでになりました!
「従業員を大事に」。
その精神は、次の代にも
AISの社長職は、2004年に和紘さんに譲りました。「似てませんね。自分は職人上がりだけど、倅(せがれ)はぼんぼん的な」とおっしゃいますが、現社長には真面目で堅実、働き者な印象ばかりで、とても世に言う「ぼんぼん」とは違う気がします。「そうは思えませんが、仮にそうであったとしても、会長さんが頑張ったからぼんぼんでいられたんですよね?」と言うと、ちょっとテレ笑い。「お父さんとの思い出はないって言われるんですよ。(仕事ばかりで)倅と遊んだりしなかったから」と、そこは少しほろ苦そうです。「倅も真面目ですね。お客さんとのつきあいももっとしたらいいのに、とは思いますけどね、会社はきちんとやってますね。安心して任せてはいます」。
AISがどんな会社であり続けてほしいか尋ねると、「従業員が一緒になって、この会社を守っていくんだ、この会社で生活するんだって、思えるような会社にしたいです。会社は従業員あってはじめて成り立つ。従業員が一番大事です」と、迷いなくお答えになりました。「コロナで大変でも、給料を減らすのではなく、経営の舵取りで乗り切ってほしい。ダメなときは従業員にちゃんと話すことです」。ちょっと、胸が熱くなりました。バトンを受けた和紘社長もまた、従業員にとって良い会社であることが大事だと常々口にされています。似ていないとおっしゃる息子さんですが、その精神は、しっかり受け継がれているようです。